伝説的経営者に学ぶ(稲盛和夫編)

ただの集団 Advent Calendar 2018の15日目です。

 稲盛和夫(京セラ、KDDI創業者)の自叙伝を読んだ中で刺さった場面を切り取って纏めました。

  • 大事なのは心の持ち方。才能や技術、学力は二の次で如何に常に心を持てるのかどうか
  • 人生は心に描いた通りになる
  • 小学校の頃はガキ大将。小学校の教訓は、「人が言ったことをそのまま信用してはならない。言葉そのものに意味があるのではなく、発する人の人格によるのだ。そんな哲学的なことを当時から考えていた。
  • 幼少時に読んだ本が心のありようを教えてくれた。「われわれの心のうちにそれを引き寄せる磁石があって、周囲から剣でもピストルでも災難でも病気でも失業でも引き寄せてしまう」そこから逃げよう逃げようとする心が災いを呼び込み、逆に覚悟を決めて心を保てば災いは寄ってはこない。
  • 父が紙の製造事業を行っていた。高校の際に始めたのが紙袋の行商。自ら自転車で鹿児島中の菓子店に売り込んで同業者が撤退したほど繁盛させた。原価や採算をほとんど考えていなかったため、ち密に計算して値付けしていれば収益はずっと違ったはずでこの経験が事業の原点。
  • 勉強はやればできるタイプで、最初は真ん中くらいであったものの専念して学年で3番目まで駆け上がった。そのうち中途半端が嫌になり、98点でも満足できなくなった。100点とらなければできたことにはならないという考えが芽生えた。
  • 「俺は頭が悪いんだから人の二倍は努力する、人が二倍勉強したところは五倍勉強する」が口癖。
  • 大学は新設の鹿児島大学に進学。当時は就職難で求人も少ないため、有機化学の大手企業は旧帝大の学生であっても厳しいほどの難関で当然受からずに全滅。教授のつてで名もない無機化学の会社に入るために卒業まで半年のところであわてて無機化学に関する研究を開始して論文をまとめた。その論文がとある教授の目に留まり「東大生より素晴らしい」と大絶賛を受け、その教授は人生の心の師となっていった。
  • 新卒で就職した会社は銀行管理で創業者一家が内輪もめの状態。さらには給料も遅配する等の経営状況で周囲からの評判は最悪の会社だった。寮もボロく食堂もない、金もないので毎日お湯に味噌と天かすを入れただけの味噌汁をおかずにしていた。転職をしようとしたがわずか半年で転職活動をすることに兄が情けなさを感じていることに自分を恥じた。進退窮まったところで吹っ切れて徹底的に研究に没頭することを決意した結果、成果が出始めた。
  • 先輩社員から学ぶことが多くよく観察していた。先輩社員がやっていたことに対してその時は分からなくとも、自分が思考錯誤を繰り返した結果始めて気付くことが多く、その時に経験則と理論が噛み合ってくる。素晴らしい技術開発はものづくりはこの繰り返しであり、先輩の後姿は経験の大切を教えてくれた。
  • 入社二年目で成果を認められ、新設した課を取り仕切ることに。十分な設備がなく汚れ仕事が多かったが、毎晩のように疲弊した社員を集めては「なぜ一生懸命働かなければならないのか」を話しかけた。大事なことは「今、自分がやっていることはどのように部品に繋がっていくのかを理解すること、そしてそれが東大でも京大でもできないチャレンジであること、それが世の中に素晴らしい製品として送り出される結果に繋がること」
  • それまで自分の能力を信じて開発を任せてくれていた部長が飛ばされた外部からきた部長に開発の任を解かれる憂き目にあったことで退社を決意。慕ってくれていた部下や自分を信じて任せてくれていた元部長を同志として起業を決意。このとき27歳。掲げた目標は世界一。やるからには目標はデカければデカいほどいい。
  • 創業当社はその日を生きるのに必死。青写真や戦略があったわけではないが、それでも「今に世界一」と言い続けた。「今は貧弱でも、志はどこまでも高くあれ。」
  • 今日一日一生懸命に生きれば明日は自然に見えてくる。明日を一生懸命に生きれば一週間が見えてくる。今月一生懸命に生きれば来年が見えてくる。その瞬間瞬間を全力で生きることが大切なんだ。
  • 経営1年目は見事に黒字化。しかし2年目に若手社員から待遇面で要求を突き付けられる。その際に感じたことが「会社経営のベーシックな目的は、将来に渡って従業員やその家族の生活を守り、みんなの幸せを目指していくことでなければならない」こと。
  • 掲げた経営理念は「全従業員の物心両面の幸福を追求する」「人類、社会の進歩発展に貢献すること」。この時、京都セラミックは自分の理想実現を目指すだけでなく、全従業員の幸福を目指す会社となり、人生観のなかで大きな位置を占めることになった。
  • 経営方針は、他社でできないことを実現すること。他ができることをやっていても信頼のある会社に発注が行ってしまうので、他社が断ったことを「やります」の一言で請け負った。
  • 最初は皆が無理だと思っていたが、この結果は全社員に「ネバーギブアップ」の精神を植え付けた。
  • 東京の大手はアメリカから技術導入しているケースが大半で掛け合ってくれないことも多かった。そこでアメリカのメーカーに先に使ってもらうことでアメリカで評価を高める方針を取った。
  • アメリカには悲壮の決意で出張した。「アメリカには会社の貴重なお金を遣ってきた。仕事もそこそこに観光や遊びに興じるなど考えられない。寸暇を惜しんで仕事をこなし、一日も早く日本に戻る。」
  • 創業5年で当時28名であった従業員は150名へと成長。それに伴って心配になってきたことが開拓者としての熱意を失い、普通の会社へとなってしまうこと。そこで思い当たったことが「全員が経営者になること」。全体を工程別、製品群別にいくつかの小さな組織に分けてそれぞれが小さな中小企業のように経営を任され、独立採算で運営を行うこと。
  • 説いたことは「思いやりの心、利他の心」の重要性。自分さえ良ければ、という考えになると足の引っ張り合いが始まり会社が内部崩壊に向かってしまう。正々堂々と競い合って経営は真の意味で成功する。
  • 利他の哲学に立脚すると、好業績をあげてもすぐに給料に反映されるということではない。立派な業績を上げるということは、それだけみんなのために貢献したということであり素晴らしい業績を上げた方に与えられるのは「名誉と誇り」である。ここから生まれる仲間からの感謝や称賛こそ人間が得られる最高の報酬である。
  • 社員の心を1つにしようと頻繁に開いたのが「コンパ」。この時ばかりは上司も部下も関係なく全員が心を裸にして率直に意見を出し合って議論を行えるようにした。本社でもどこの工場でもコンパ用の和室をしつらえていつでもひざを突き合わせてコミュニケーションが取れるようにした。コンパは心と心が結ばれる格好の場である。
  • 創業8年目、34歳で京セラの社長に就任。そこで工場を1億円かけて増設しIBMからの大口受注も実現。IBMの規格は今までに類を見ないほど厳しいものであったがこの創業以来最大のチャレンジを正月やお盆も全て返上して乗り越えた。
  • 海外で買収したサンディエゴの工場では、半年で買収額を上回る累積赤字を計上した。原因は人のマネジメント。日米で働き方に大きな差がありそれまでの京セラ流の働き方が現地人に受け入れられなかった。「アメリカの技術者は一般の技術者と間違っても仕事をせずに指示を出すだけ」「従業員ははかどっていなくとも必ず定時あがり」という状況で経営が安定稼働しなかった。この危機を乗り越えたのは送り込まれた5人の日本人技術者。雨の日も風の日も雪の日も休日でさえも返上で早朝から深夜まで一心不乱に働き京セラ流を工場に示し続けたことで徐々に他の従業員も心を入れ替え始めた。お客様のために最高の商品を納期までに実現するために働き続け見事に黒字化を達成した。アメリカ流も日本流もない、そこにあるのは人間流である。
  • 経営者は常にフェアでなければならない。正しいことを正しく貫ける経営者こそが強い。
  • オイルショックであっても常にフェアを貫き、人員整理は一切しなかった。苦しい時こそ皆で耐え、そして正常化した時には皆で分かち合う。
  • 企業の成長と安定を両立させるために事業の多角的展開と世界市場での販売促進における多面的展開を経営方針として打ち出した。多角化は経営者であれば必要なことは誰でも知っているが、力を分散してしまうことで専業のライバルに敗れやすくなってしまうリスクがある。そこでこれまで培ってきたセラミック技術を使って異分野へ進出することを考えた。それがエメラルドの開発。人口宝石をセラミックの力で生み出して最高品質の宝石を安価で売り出して新市場の創出を狙った。最初は天然宝石こそが本物の宝石であり人口の宝石など売れない、という市場評価に窮地に立たされたが、新会社を設立し新たな販売網の確立、展示会を繰り返すことで宝石愛好家から評価を集めて事業を軌道に乗せることに成功した。
  • 自動車などに利用される大型高速旋盤加工機に使用されるセラミック製チップの開発も手掛けた。ドイツのベンツ社に技術者を派遣して技術を習得して日本に展開することで高品質切削工具の代名詞と言われるまでに成長させた。
  • 医療分野にも進出。人工歯根、人工骨の開発を行った。しかし、薬事法を考慮せずに展開したことでマスコミから糾弾され、操業停止処分を受ける。この時に心の師から教えられたことが「神が与えたもうた試練」であるということ。「災難にあうのは過去につくった業が消える時。業が消えるのだから喜ぶべき。それしきのことで業が消えるのであればお祝いをしないといけない」「積みし無量の罪滅ぶ」
  • 創立20周年を迎えた年は京セラにとって転機となる年。海外電卓市場の急激な落ち込みで経営を悪化させた電卓メーカーのトライデント社、サイバネット工業を合併。またカメラ業界の大手であったヤシカも合併した。いずれも知人経由で再建を依頼されて引き受けた合併であり、事業の立て直しは困難を極めたが「引き受ける以上は全て面倒をみる」という信念で全力を尽くし見事に再建させた。またいかに苦しい時にも人員整理だけは行わなかった。こうして守った社員が後に第二電電(後のKDDI)で大いに活躍してくれている。
  • 京セラは良く積極的なM&Aで事業拡大にまい進してきた会社と言われるが、自分から買収を仕掛けたことは一度もない。救済を頼まれ、相手の社員を救ってあげたいという純粋な想いからめぐってきた縁を大切にしただけ。
  • 上場後、思わぬ資産を持つようになったが、「人のため世のために尽くすことが人間として最高の行為」という人生観から稲盛財団を設立し、「京都賞」を創設した。これに伴って今日までは自分を育んでくれた人類及び世界のために恩返しをした。基金は自分が所有していた株と200億円を拠出した。
  • 1982年、電気通信事業の分割・民営化が答申され、参入を決めた。当時の京セラの手持ち資産、1,500億円のうち1,000億円を使った大事業。それまで異常に高かった通信料金を引き下げて新たなページを刻むべくスタート。当時はわずか社員20名。そこから携帯電話に始める移動体通信事業の自由化も決定される。過去の半導体セラミック事業の急速な市場拡大に伴い、将来的に大型の携帯電話が小型化されて国民一人ひとりが持つようになると確信しすぐに参入を決める。使用できる周波数帯の制約から参入できるのは1社であったものの競合。エリアを分けて交渉することになったもののドル箱である首都圏の取り合いに発展。このまま長引くことで迷惑をこうむるのは国民であると考えて譲る決断を下す。負けて勝つ。
  • M&Aは海外企業にも及び、アメリカを代表する電子部品メーカーであるAVX社の買収にも発展する。交渉の際に二度も不利な条件を突き付けられるが、「利他の精神」を貫きどちらも受け入れる。その結果、目に見えない信頼関係が醸成され、日本企業の海外企業買収案件の中で最も成功したケースと言われる成功を収めた。
  • 2000年、解体されるはずであったNTTが解体されずに一強独占状態が継続することに懸念し、対抗するために一度競合してエリアを分け合った会社と合併しKDDIを設立。「小異を捨てて大同につく」競合する会社に一企業の利害を乗り越えて国民のために協力してほしいと要請しKDDIは実現した。
  • 経営不振に陥っていたコピー機メーカーの三田工業を買収支援。京セラミタとして再建を実施。この時新任社長となって立て直しを図ったのが、以前買収支援を行って再建させたバイオネット工業の社員。「善の循環」「情けは人のためにならず」
  • どれだけ得意絶頂の時であっても常に謙虚な心を忘れてはならない。傲慢不遜は自ら衰亡の原因を作る。
  • どんな苦難や逆境に陥ろうとも「恨まず」「嘆かず」「腐らず」「明るくポジティブに」人生を受け止めて素直に努力することが大事。どんな運命が待ち受けていようとも感謝の念を持ち前向きに生きていけば人生は開かれていくものである。