伝説的経営者に学ぶ(本田宗一郎編)

ただの集団 Advent Calendar 2019 の6日目の記事です。

今回は、本田宗一郎本田技研創業者)の自叙伝を要約し、感想を書きました。

 

【まとめ】

  • 本田宗一郎の父は鍛冶屋を営んでおり、鉄を打つということを見るのは日常茶飯事であった。
  • 幼少期から読み書きが苦手であったものの、理科だけは好きだった。特に機械いじりが好きでその授業だけ出ていた。
  • 当時戦争真っ只中であり、ちょうど自動車が普及し始めた時代。車が好きで将来はなんとしても車いじりに携わりたいと思っていた。
  • 小学校卒業と同時に車いじりに早急に携わりたいとの思いから自動車修理工場の求人に手紙を書いて頼み込んだ。それが東京にあるアート商会という会社。
  • 願いが聞き入れられ、単身上京して住み込みで働いた。しかし最初は社長の子どもお守りや掃除、洗濯という仕事だけであり、何度も逃げ出しそうになったものの、「この時間は将来のための布石である」と信じ続けて耐え忍んだ。
  • 半年後、ようやく社長の信頼を勝ち取り始め自動車修理を任せてもらえるようになった。その後、しばらくアート商会で修行した後、22歳でのれん分けしてもらい、アート商会浜松支社の社長となる。
  • 創業当初は自分の身一つ、あとは修行の身の若者1人という状況で始め、若いことで見下され、あまり仕事が来ることがなかったものの、他社が修理できなかったことができたと評判が拡がり徐々に業績が向上してきた。創業初年度で利益80円(現在の価格で11万程度)という結果を出した。
  • 独立後、業績目標を生涯の間に1,000円(現在の価格で150万程度)稼ぎ出すことと定めて目標に向かって働きまくった。その過程で車輪のスポークに目を付けた。当時は全て木製であったが、それを鋳物製にして特許を取り博覧会に出品したところ、多くの注目を集めることができた。この結果多くの仕事が舞い込み始め、生涯1,000円と掲げていた目標はいつの間にか月間1,000円を軽々と超え、わずか数年程度で実現してしまった。また工員も50人ほどに増えた。
  • そのうち会社は業績を拡大するとともに、自社の工員が独立して修理工場を始めることが増えていった。それに伴って修理工場から商売を変更することを決めた。理由は独立した工員と争いたくなかったから。重役陣とは大いにもめたが、なんとか押し切って商売の変更を決めた。
  • 新たに始めたのはピストンリングの製造・販売。株式会社トヨタにおろすピストンリングを製造した。徐々に精度を向上させようやくトヨタに納品できるまでの商品になったものの戦争終結に伴ってピストンリングの需要が突然終了。終戦とともに株を売り払いピストンリングの製造を止めた。
  • そこで次に目を付けた商売がオートバイの販売。終戦後、日本は道路が整備されておらず、大まかな移動手段はバスであったが、どこも混雑を極めていた。そんな状況から個人の移動はもっぱら自転車であったが、荷物の運搬を考えると大変な労働となっていたことに不便さを感じ、打ち捨てられていたエンジンを修理して自転車に取り付けた、エンジン付き自転車を開発した。
  • エンジン付き自転車は瞬く間に評判となり、あっという間に月に1,000台を売るまでに拡大。周りからは「燃料の無い時代にこれ以上オートバイなど売れない」と批判の声が多かったが、「ガソリンの無い時代だからこそ少ない燃料で動くオートバイが必要になる」と信じエンジンの製造、オートバイの販売にまい進したことが見事に当たった。
  • その後、単に自転車にエンジンを取り付けただけのオートバイではなく、本格的に二輪車を作りたいとの思いから二輪自動車を作成。初代が「ドリーム号」
  • 本田宗一郎は、モノを作る上で技術者として天才的であったものの、販売についてはあまり得意ではなかった。オートバイは売れる一方で不安定な世相から、モノだけ持って代金は払わない業者も多くいた。そこで、資金回収や販売を改善するために販売が得意な人材を紹介してもらった。
  • 本田宗一郎は自分の家や自分への給料、報酬は二の次で何よりも従業員を大事にした。会社が苦しい時は家や自分には一銭もお金を入れず、全て従業員の給料に回していた。
  • 本田宗一郎の考えとして、性格の違った人間と付き合えないようでは社会人として値打ちがないということ。人材は広く求めるべきで、自分勝手に経営をしているようでは企業は伸びない。会社を立派に維持、発展しうる人材であれば外国人であったとしても社長を譲りたい、という考え。
  • 本格的な二輪自動車は評判も良かったものの、当時としては高価であったものの、大衆に受け入れられる状況ではなかった。そこで新たに開発したのが、カブ号。
  • 本田宗一郎のモノ作りに対する信念は「良品の国境なし」。当時、技術力が発展途上であった日本は輸入制限や輸出の強化を政府頼みにする企業も多かったが、本田はその状況に嫌気を感じていた。良いモノであれば輸出も増えるし誰も外国製のモノを輸入しようと思わないはずである。技術を高め、世界一性能の良いエンジンを開発して輸入を防ぎ、輸出をはかろうと考えていた。
  • 日本はこのままでは技術で世界に取り残されてしまう。世界一のエンジンを作るには相応に良い機械を使うことが求められる。良い技術を活かすために海外で最も性能の良い工作機械を多額の借金をおこなった上で輸入した。
  • 世界一のエンジンでオートバイを作ることを決意して、英国で開催されていたTTレースへの参戦を表明。理由は2つ。このレースで勝てなければ世界のオートバイ市場で勝つことはできないから。もう一つは敗戦直後の日本に勇気を与えるため。初出場は6着、そして翌年優秀という快挙を成し遂げた。
  • その後、アメリカに拠点を立てて更なる海外からの輸出伸長を目指した。海外での商売に関する信念が、必ず現地の人を雇って商売を成立させること。アメリカに行ってアメリカ人に現地水準の給料を払えないようじゃ成功はできない。日本から派遣する従業員は最小限にとどめて現地採用を積極的に行った。その土地にどっしりと腰を下ろして商売を行うことこそが、最もオーソドックスな商売成功法であると考えている。
  • また海外におけるモノ作りに関して大事にしていることは、思想の元に技術があるということ。利用者の好み、体格、規則も異なるので、その土地の思想に合わせて技術を活用する。そしてその土地の人たちを富ます方法を考えて臨むことが必要不可欠。
  • ホンダは順調に成功してきたように感じられると思うが、研究の99%は失敗。偶然成功した1%で今のホンダがあるのである。
  • 技術を大事にしているため、研究所を別会社として独立させたが、ホンダの売上の3%をもらってその費用で研究し代わりに青写真を売るという体制を取っている。そして、もし研究所のミス(青写真が的外れ)でホンダが損をするようなことがあればその責任は全て研究所がとる仕組みとなっている。この点が博士養成を自慢している他の研究所とは異なる部分である。
  • ホンダは理論尊重の気風が会社にしみわたっている。例えば、設立から10周年経ったからといって記念式を行うことはない。記念する以上は何か1つでも世間の役に立った時に記念すべきである、という意見が社内からも出てくるような気風である。
  • 本田宗一郎が常々考えていることは、従業員は全員経営者であるということ。従業員は全員経営に参加する義務と権利を有している。苦しい時こそ全社員にはっきりと実情と今後の対策を明示して一丸となって困難を克服することが真の労使一体である。
  • 会社経営の根本は平等にある。学閥、派閥、あらゆる閥は不要で会社経営のガンになりやすい。

 

【自叙伝を読んで】

  • 読んでみて感じたことは、圧倒的な信念、技術に裏打ちされた自信、先見の明、そして自己犠牲の精神と決断力。
  • 稲盛和夫にも共通していることをいくつも感じ、成功している経営者は誰よりも未来を予測し、そして自分が勝ちうる最善の策をやり切ることで最後に成功を掴んでいる。
  • どんなに反対されようとも、自分が信じた道をリスクを負ってでも決断し、導く力が圧倒的で、単に技術力があって天才というだけではないと感じた。